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いっしょに赤飯!?(2) ~ 『不惑のアダージョ』 ~
心を動かしていいのだ。
伝えていいのだ。
ほどいていいのだ。
あふれていのだ。

拓かれていく。調べとともに。


*    *    *

〈更年期を迎え閉経した修道女と、初潮を迎えた女の子が公園のベンチに並んで、赤飯を食べる〉

というシーンを、フリーペーパーのシネマガイドのコラムで知り、『不惑のアダージョ』という映画を観たくなった。
そのシーンは、出産の遅かったわたしにとって、妙なリアリティを持って迫ってきたからだ。

(コツメが初潮を迎えるころ、わたしは更年期で、閉経しているかもしれない)
(コツメと一緒に赤飯)

もしも現実にそうなったら、「バトンタッチ」という感じで、いいなあと思いつつ、できれば、もうちょっと遅めでもいいけどなあ…… などと思ってしまい、映画の中で、そのシーンがどんなふうに位置づけされているのかを確認したかった。

(修道女と女の子はどういう関係なのか?) 
(二人で並んで赤飯を食べているいきさつは?) 

そこにいたる過程や会話、感情の動きを知りたいと思った。
公式ホームページにも、映画を観た人のレビューにも、このシーンのことは書かれていなかったので、なおさら気になり、大阪で公開される日を指折り数えて待った。

この映画のキャッチコピーは、

「人生の秋― わたしは、それをひとりで迎える」 

というものだ。
更年期が人生の秋! カンベンしてくれよ……と苦笑しかけ、

(なるほど「更年期」は確かに「人生の秋」)

だと思い至った。

〈豊穣と実り。収穫。次世代の実りを約束する種。感謝と祝福。!!!〉

ところが、一般的には、秋の豊かなイメージではなく、どちらかといえば、収穫を終えたあとの、何もかも刈り取られ、冬に向かう風に吹きさらされた晩秋のイメージで認識されているような気がする。当の女性ですら、だ。
それは、更年期に伴うさまざまな変調が、とても辛いもので、不自由で、自分の力ではどうにもならないと聴くことが多いからだと思う。
単純に怖いし、イヤだし、何よりも、「あるものがなくなる」ということが、寂寥と喪失感を伴う。

更年期を迎え、女性はステージが確実に変わる。

(どう変わるのか?)

からだについては、ケアが必要なことが増えるので、手放しでは喜べない。だけど、
自分のからだの中で、

「待ち」の姿勢でいるものがなくなる 

というのは、精神的には、ものすごく躍動に満ちた創造ができるのではないだろうか?
むしろ、そこから生まれ変わったような人生を拓いていく女性も多いと思う。

「手放す」もののことより、手に入れたもののことを考えたほうが、ぜったいに素敵。
待つことも確かに魅力的だけど。

「待ち」とはなにか?

思春期から更年期までの排卵する女性の身体というのは、「待つ身体」だと思う。
受精卵というお客さまがやってくるのを、ふかふかのベッドを整えて待っている。
黄体ホルモンは、毎月、毎月、十四日間の雇用通知をもらって、短期雇用されているお世話係のお姉さんだ。

(くるかな? くるかな?)

十四日間、ずっと待っている。
来なかったら撤収だ。最高のベッドは、経血となって一掃されてしまう。
そしてまた、

(くるかな? くるかな?)
(どんな子かな? かわいいかな?)
(ふかふかに。最高に。安心で。安全に)
(守ってあげるんだ。かわいがってあげるんだ)
(まだかな? まだかな?)

待っても待っても、お客さんは、なかなか来ない。めったにこない。一生来ないこともある。
それでも、お姉さんは、毎月毎月、十四日間の雇用通知をもらって、心をこめて、お部屋を整える。十四日たって、誰もこなかったら、一生懸命メイキングしたベッドを、惜しげもなく、跡形もなく、お掃除する。そんなくりかえし。けなげで、いじらしい。
このことを知ったとき、PMSをうっとおしいと思っていた気持ちが消えた。
小部屋で、お客さんを待っている働き者の、優しいお姉さんの姿を思い描くようになった。

*    *    *

何百回もの撤収の日々の中で、わたしの場合は、二回だけ、お客さんが宿った。

たぶん、リクトはポーンと飛びこんだのだろう。
コツメは、くるくると舞いおりたのだろう。

(お客さんが来た!)

どんなに驚いたことだろう。
どんなに嬉しかったことだろう。

(たまごの赤ちゃん!)
(お世話ができる!)

どんなに誇らしい気持ちになったことだろう。

さっそく、十四日間の発令通知が、五ヶ月間に更新され、黄体ホルモンのお姉さんは、しっかりした胎盤ができるまで、毎日、毎日、たまごの赤ちゃんのお世話をしてくれた。

どんなに、かわいかったことだろう。
どんなに、いとしかったことだろう。
二百四十二回×十四日間、まちわびて、まちこがれた、お客さん(→ 後のリクト)。

その後、また、

「くるかな、くるかな」
「こないので、撤収します……」

を、くり返したあと、次のお客さんがチェックイン(→ 後のコツメ)。
二回目だから、お姉さんは、とってもお世話上手だった。コツメも、たいせつに、たいせつに、してもらった。

*    *    *

さまざまなホルモンが、毎日、分泌されて、女性のからだは、できている。
招待状を出して、待っている。毎日、毎日、待っている。
準備と撤収。それでも、また、毎月、招待状を出して、待っている。

待っている。

(……)
(もう、絶対に来ない)

とわかっているので、終盤戦の今、とっても心苦しい(苦笑)。

更年期は、
待つからだから、待たないからだへ。
待たせるからだから、待たせないからだへ。
待ちわびるせつなさも、待ちぼうけさせる申し訳なさも、すべてからだから消えるのだから、ステージが変わったあとは、今まで味わったことのない躍動感で、爽快感に包まれるはず。……だと思っている(笑)

リクトとコツメの笑顔や寝顔、一生懸命な姿をみるたびに、

(ありがとう)

と思う。

(わたしの黄体ホルモンのお姉さんを、喜ばせてくれた、かつてのたまごの赤ちゃんたち)

(いじらしくて、せつなくて、けなげで、くるおしくて、ただ、手をあわせて、いのりたいような、こうふく)

リクトが飛びこんできたとき、コツメが舞いおりたときの、お姉さんの気持ちを思うだけで、満ち足りた幸せ感で、いっぱいになる。
自分のなかに、宝物が宿ったことを知った、あのときのように。

リクトとコツメが、いとおしくて、いとおしくて、だきしめたくて、たまらなくなる。

こういう気持ちが、わたしという人間にとっては、必要だったのだと思う。
だから、リクトがやってきてくれた。
まだ足りないから、コツメが追いかけてきてくれた。

結婚する人もいるし、しない人もいる。子どもを産む人もいるし、産まない人もいる。
子どもが一人の人もいるし、何人もいる人もいる。男女の産み分けもさまざまだ。
必要な人のもとに、必要なものがそそがれるのだと思う。
手放す時期もそれぞれに。

*    *    *

月経がなくなることは、女性でなくなることでもないし、女性性を失うことでもない。
更年期は、次のステージへの移行期。


わたしに、このイメージを持たせてくれたのは、「女性のからだ講座」だった。
女の子を持つ母親として、からだのことを知っておこうと思ったから受講した。
そのとき、講師の先生が言った、

「お客さん、来るかな」

のひとことで、わたしの中のホルモンや臓器の働きが擬人化され、物語が動き出した。
自分のからだや、子供たちがいとおしくなった。
排卵のメカニズムなんて、前から知っていたけれど、それまでは空疎なものだった。
受講生は六人くらいいて、みんなでその講座を聴いたけれど、黄体ホルモンを擬人化したのは、わたしだけだった(笑)。
耳で聞いた言葉から、むくむくとイメージをふくらませることができるのは、特技なのかもしれない。

物語は、人を救う。
こんなふうに、人に物語の兆しを投げかけるような言葉を、わたしも紡いでゆきたいと思っている。

*    *    *

で。
『不惑のアダージョ』なのだけど……

〈修道女と更年期〉

という設定で女性の監督が自ら脚本を書いてメガホンを撮ったこと、その監督が更年期を迎えてもいないことに(監督のことはよく知らないままに)、何をテーマにした映画なのだろう?と感じていた。

(女性のからだをわかっているのだろうか?)
(更年期がどういうものかわかっているのだろうか?)
(修道女がどういう人たちなのかわかっているのだろうか?)

そういう思いを抱えたまま、映画を観た。

観てわかったのは、「修道女」は「象徴」だったということだ。
映画の中で、主人公の真梨子さんは、教会に属し、讃美歌にあわせてピアノを弾き、修道服を着て、清貧・貞潔・服従の三つの修道誓願を立てた修道女「のような設定」になっている。

けれど、それは「象徴」。
ドキュメンタリーではなく、フィクションなのだ。

自分を守る「鎧」として修道女のような生活を課して生きている女性を象徴するものとしての、教会であり、修道服であり、修道女。

真梨子さんの心だけにフォーカスしないと(いや、していても?)、ツッコミどころ満載のコメディになってしまう(いや、そもそも品格の高いコメディだったのだろうか?)。

修道女のことをよく知らない私ですら、修道院の共同生活を離れ、古びた共同アパートのようなところで一人暮らしをしている修道女などありえないとわかる。このことはよいとして、真梨子さんの心のブレや行動すべてが、神の「召命」を受けた修道女の精神性の域ではない。

でも、「象徴」だというならわかる。コスチュームだというならわかる。
ある女性の、こわれもののような心理の偏光を、さまざまな角度から描いてゆくための。
どんな女性でも、修道女のような生活を自分に律し、修道服をまとうような鎧で自分自身をプロテクトすることがあると思う。

映画の終盤で修道服を脱ぎ、平服を着た真梨子さんに拍手!
真梨子さんの笑顔に、祝福のエール!
「修道女のような」真梨子さんが、不器用に、閉ざしていたものに魂で向かい合っていく。
音楽を通じて、感じ、踊り、奔放になることを赦していく。

心を動かしていいのだ。
伝えていいのだ。
ほどいていいのだ。
あふれていのだ。

誰の心の中にもいる真梨子さんが拓かれていく。調べとともに。

赤飯は、真梨子さん自身を祝福するものだった。
そのことがわかって、すっきりした。
コツメと赤飯を食べるとき、わたしは自分に何を祝福できるだろうか?

*    *    *

余談になるけれど
『不惑のアダージョ』公式ホームページなどに、「人よりも早い更年期」と、称してはあるけれど……、やっぱり、四十歳で閉経というのは早いように思うので、まずは婦人科を受診して、疾病の有無を確認した上で、何か手立てをしたほうがよい。
女性ホルモンの働きは、出産に向けて働くだけではないからだ。
投薬の副作用が心配なら、ハーブティやアロマや漢方などを処方してもいい。

実際に、映画の中で、真梨子さんは婦人科の前まで行くのだけれど、入らない。
入ることに躊躇する気持ちはわかるけれど、入ってほしい。別の病気かもしれないからだ。
婦人科系の不調は、人に言うべきではない恥ずかしいことだという思いこみが、年配の人ほど強くて、誰にも相談することができず、手遅れになってしまう女性が多いと、「女性のからだ講座」で聴いた。

自分のからだを知ること。
たいせつにすること。
感謝すること。

(わたしが、コツメに伝えてやれることはなんだろう?)
(何がわからなくて、何が知りたかっただろう?)
(何がイヤだっただろう?)

子供向けの本などを読んでいる今日このごろ。

浜田えみな



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テーマ : 物書きのひとりごと
ジャンル : 小説・文学

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(非公開コメント受付中)

はじめてお邪魔します
村松恒平さんのセミナーでお隣に座らせていただいたバブルスです。

ブログ、お邪魔させていただきました!よろしくお願いします(*^_^*)

お赤飯。

なんとか、上の娘と現役で並走しております(爆)。

本人のたっての希望(恥ずかしい)でお赤飯炊いてないけど、やっぱり何かの方法で祝ってあげないとですね。

たくさん読ませていただきたいので、またお邪魔しますね。
今後ともよろしくお願いします。
ありがとうございます!
バブルスさん こんにちは!
さっそくご訪問、ありがとうございます!
バブルスって、お名前だったのですねー
勝手に、エジプトの言葉かと思って(それはパピルス?)、哲学的なイメージを描いていました。今度、名前の由来を教えてくださいね。
バブルスさんのブログ、今からおじゃましますー。
浜田えみな
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Author:浜田 えみな
こんにちは! ブログに来てくださってありがとうございます! H11生まれの長男と、H14生まれの長女の二児の母です。文章を書くことが好きなので、フルタイムで仕事をするかたわら、あれこれ書いています。H26年8月に薦められた短歌にハマり、現在その世界観を模索中です。よろしくお願いします。