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「吉野の里のスローフード」
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 平凡社 別冊太陽 生活をたのしむ⑤ 
「吉野の里のスローフード」 畑の野菜とイタリア料理
 永松 信一 永松 清香 著
 山本 賢治 写真
 ISBN4-582-94459-0

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2006年4月の アロマテラピーのセミナーで、
著者の永松 清香さんと同じグループになり、
ことばをかわした。

数日後、ポストに届いた包み……

        *   *   *

カテゴリ:「本三昧」は、ブックレビューです!

と胸を張りたいのですが、感動した本は、数多くあれど
レビューを書くより、次の本が読みたいので、
この十年間でも、きちんと書き残したものは、本当に
少ないのです。

でも、今後は、書いていきたいので、カテゴリを作り
ました。

清香さんの書かれた冒頭の文章が素晴らしいので、引用
します。

はじめに
                 永松 清香

「ロアジ」は山の中の小さなリストランテです。吉野山地の
山間部、四郷川という鮎が棲む流れの渕に立っています。
狭いながらも畑を持ち、そこで栽培した野菜と地物の食材を
使ったイタリア料理を提供しています。ロアジは、イタリア語で
「オアシス」の意味。日常の疲れをいやす安らぎの場所に
したいから、とオーナーシェフである主人が名づけました。

 お店は十二名で満席です。シェフとサービスをする私の
ふたりで切り盛りしています。パンを焼き、前菜から
デザートまで、料理は全部、主人ひとりで作ります。それには、
この数が限界なのです。そして、お客さますべてに目を
届かせなければならない私にとっても。
                            後略……

残念ながら、奈良県東吉野村の「オアシス」は、今は
場所を移しています。

--------------------------

「リストランテ ロアジ」

ポストの中に、自分あての名前が見えた。

手書きだ。

郵便は思いがけない。
素敵なことに決まってる。
嬉しいことに決まってる。
本のように見えた。

ドキドキ。わくわく。なんだろう? 

懸賞にも応募していない。
誕生日でもない。
誰だろう? 
本を贈ってくれそうな友人、知人……。
記憶の中の、誰の筆跡にも思い当たらず、
エイっと裏返すと……

電子メールの受信トレイで、見慣れていたはずの名前だった。

なのに、どうしてだろう。
この感じ。この温かさ。
声がきこえたわけではないのに、
ソフトペンのやわらかいタッチは、
まるで当人が、すぐそばに来ているようなぬくもりがあった。

つつみこむような幸福感。
遠い地でかけてくださった思い。
活字やディスプレイのフォントでは得られることのない、
その肉筆の威力に胸を打たれ、
こんなに電子媒体が普及するまでは、
あたりまえだったその事実に、
ふいに気づかされたことも、

清香さんと知り合うキッカケとなった、
レベルが高すぎてついてゆけず、
途方にくれたアロマの講習会のことも、

普通に生活しているだけで、予告なしに舞いこんでくる、
こんな捨てたものじゃない
〈イッツ、ソー、ビューティフル! な〉現実も、

なにもかもがうれしくて、
マンションのエレベーターの中で、
ニヤニヤ笑いがとまらなくて、困った。

大急ぎで開けた封筒の中身は……。
なんて、深くて尊くて、重いものだったでしょう。



東吉野の土と水と光のもと、
生命は育まれ、息吹をあげ、次世代のために実る。

そうして、天から享受した数々の素材は、
イタリアの伝統的なレシピや、
シェフのオリジナルな着想により、
魅力的に組み合わされ、
味わいを深く引きだす芸術的な一皿が生まれかわる。

焼きたてのパン、料理にあわせて選ばれる飲み物。
入り口に、テーブルに、窓辺に、
さりげなく添えられた季節のあしらい。

五感の全てに、コースは四季を奏でる。
そんなリストランテ ロアジの紹介…… 

のようだが。

足跡なのだった。シェフのこれまでの。

書籍で紹介される四季の料理は、
何度めぐったであろう、
これからもめぐるであろう、
習練と達成のコラージュ。

どの料理のレシピにも、
シェフが真摯に打ちこんできた無数の刹那がちりばめられている。

さらなる到達目標の具現へと続く
堅実な歩みをとめないシェフの、
節目の集大成。

単なる料理の本ではない。ずしりと重い本だった。


料理に添えられた言葉の中に、
二十代のシェフや、三十代のシェフが生き生きと登場する。

地名がたくさん出てくる。
トスカーナ、フィレンツェ、ミラノ、東京。

日本の寿司屋で、皿洗いと配達をしていた少年が、
フィレンツェで、猪を解体する。

一時間でさばけるようになり、
地元の肉屋さんに勧誘されて、本当にうれしかった、
というコメントが、とてもすきだ。


        *     *     *


掲載された料理には、全て作りかたが載っている。
果たして、これはレシピなのだろうか? 
どの行を読んでもどこから読んでも、
料理のつくりかたというより、
素材を知りつくし、大切に扱い、持ち味をどう活かし、
どう劇的にアレンジするかという趣向をこらした、
料理版の「マイ・フェア・レディ」だ。 

畑や、近隣の産地からの野趣あふれる秘蔵っ子たちが、
舞台に出るために、シェフの手により、
きれいに着付けをしてもらう。
ヘアメイクをしてもらう。
生涯に一度のハレの日の装い。
または、お見合いパーティ。
初めての相手と、ならんでお皿に盛りつけられる。
からめたソースで寄りそいあう。

こんなに素敵にしてもらった!
どう? いいでしょう! すごいでしょう? 
相性もピッタリ! と、
素材たちがすましてポーズを付けるようすが、
料理写真の後ろにオーバーラップして、
にぎやかな笑い声が聞こえる。

あたたかく見守るシェフのまなざし。
それは、いくつもの幸福な物語だった。

料理をする人の書いたものを
特に私が好きなのは、
眼と手と耳が素晴らしいから。
細胞レベルまで素材を知りつくし、
色や質感で鮮度を見極め、
触れただけで状態がわかる。

かすかな変化をも聞きのがさない耳を持ち、
最適の調理と正確な計量をする技量を持つ。

無駄を出さない。粗末にしない。
確かな手順で完成した料理には、迷いも妥協もない。

相手のことを知り、どのような状態にあるかを思いやり、
最高によい状態を引きだす。
無駄を出さないのも、分量を時間をきちんと計るのも、
素材を尊重する心。

料理を供する相手に最上のものを、という祈りにも似た願い。

互いが互いにかけられた期待を裏切らず、きちんと応える。

強く完結してゆるがない、このシンプルな愛の形は、
私を安定させる。

人間同士だって、同じ。
同じなのに、

すれちがったり、気負いすぎたり、深読みしたり、知らなさ過ぎたり。


ロアジで供される料理の、ほんの一部に過ぎないのだけど、
この本には、料理の写真が、とてもたくさん掲載されているので、
思う存分、眺めることができる。

食事の場では、そんなに長い間、料理を見つめていることはできない。
どんなに繊細な包丁の入れかたも、
皿の上の美しい彩りも、
初めて見るソースの微妙なグラデーションも、
息を呑む大胆な演出も、
最上の状態で供された料理は、
秒単位で風味が損なわれていくからだ。

目に焼きつける間も惜しみ、
フォークを入れて完璧な調和をくずして、
一刻も早く舌にのせなければならない

(じっくりじっくり、ためすがえす皿の向きを変えて眺めまわしたり、
匂いだけをいつまでもかいでいたり、
ましてやスケッチなどを始めてはいけない)。

舌の上で、もっともっと味わっていたい!
噛みしめていたい!
ああ、一生飲みこんでしまいたくない! と
切に願っても、

あまりのおいしさに大量の唾液があふれでて、
あっというまに喉の奥に押しながされてしまう。
あああっ。

忘れたくない。
料理の味も、すごした時間も、
その場に満ちていた空気感も。

窓の外の、遥か高い空の色さえ、
忘れたくない。

思いだしたいときに、いつでも思いだせる用意をしておきたい。

そのために、食感や風味を、「自分の言葉」で残しておきたい。
許されるならスケッチだってしたい。
皿がさげられ、次の料理が来るあいだに、
膝の上にかくした紙片を取りだして、走り書きをしたい。

もちろん、できない(ことのほうが多い)ので、
指がもぞもぞして、おしりがムズムズする。
とても重大なことをしそびれている、という焦燥感で、
ごそごそと落ち着かない。

ヘンな客です。ごめんなさい。


山本賢治さんの撮った写真を見て、想像する。

《たけのこと春キャベツのアリオオーリオ》
(なんのことかわからなくても、
 やたら美味しそうな、この言葉は、ソースの名前らしい)

《ビタミンのリゾット》
 スプーンにすくったソースと
 米と豆と緑の春の野菜たち。
 口の中でどんなふうに饗宴するのだろう? 

《いちごのタルト》
 タルト台って、こんな食感かな。
 アーモンドクリームとイチゴソースとイチゴジャムだって。
 トリオだ! 縁はサクサクかな。こんな香ばしさかな。
 イチゴの甘さ。果肉のみずみずしさ。

《ビアンコマンジャーレ》
(ブランマンジェのことらしい!)
 その言葉を舌でころがすだけで、
「いままで味わったことのないやわらかさ」というものが、
 想像できそうな気がする。


肉の旨みも、弾力も、肉汁の香ばしさも、
新鮮な野菜の歯ざわりも、
何層にも味わいのある凝縮された甘さも、
丁寧に仕上げられたソースの複雑な味わいも、
夢見るようなデザートも、
全てすべて、私の貧困な想像を、
がんがん打ちくずす、本物の料理たち。

それらは全て、口の中に入れたときの温かさやつめたさと供に、
鼻腔にとどき、大脳辺縁系を刺激して、記憶と繋がる。


その日、そのとき、その瞬間、そのひとだけにしか受けとれない皿だ。
同じ皿は、二つとない。

だから、料理は作られる。
人は、リストランテを訪れる。

この本を手にして、ロアジに向かった人はみな、
シェフの神業的な腕前に喝采を贈るだろう。

この本をめくるたび、ロアジがはこんだひとときは、いつでも蘇るだろう。


          *     *     *


奥様の畑。

農業というのは、なんと丸裸で自然の中に
飛びこまねばならないものなのか。
闘いだ。

時間になったから終わりとか、
疲れたからおしまいとか、
強い陽射しや雨や風でやめてしまえるものではない。

一生懸命なだけでは、成果が出ない。
腰も痛くて、腕も痛くて、どろどろで、
ぐしょぐしょで……。

知識も必要だから、本も紙も筆記具もいる。
家屋の中で、机の前で、椅子にすわってできることもあるけれど、
畑の仕事は、その手で土を掘りかえし、
腰をかがめ、膝をつき、
土の匂いをかぐように大地に近づかねば、
何も始まらない。動きださない。

さらに、小さな種が、発芽のときまで、
ぬくぬくすごせる栄養いっぱいのふわふわの布団
(用意してやるのは大変そうだ)には、
ああ、虫がいっぱいいるだろうなあと思うのだ。

硬い虫、やわらかい虫、長い虫、
色もいろいろ。もぞもぞ、ごぞごぞ。

収穫した野菜の中だって、
見たこともないイモ虫だかナメクジだかが、
いたるところに隠れていて、

葉っぱを、むいてむいて、めくってかきわけ、
洗って洗って、もうこれで大丈夫! と思っても、
ぐらぐら煮立つ鍋の中に、青菜を放りこむと、

ゆであがって赤紫色になり、
硬くまるまってしまった幼虫が、
ふよふよ浮かんでくる。

どうしたらいいのーっ。


      野菜洗いが大雑把なので、
      採りたてのサニーレタスを、ちぎってサラダにしたら、
      口の中で舌にのるまで、ナメクジに気づかなかった。
      
      レタスの食感とはちがう、ある種の違和感に、
      指を口に入れて引きだしてみたら、

      ぎゃああ、それはナメクジ! 舌の上にナメクジ! 

      それ以来、
      洗っても洗っても、
      ナメクジの這ったテラテラの跡が取りきれない(気がして)、
      どんなに検分しても、
      ヒダの後ろに上手に潜んでいる(気がして)、
      
      何よりも、舌の上のナメクジの感触を忘れることができない(!)
      ので、祖父の畑のサニーレタスは、生では食べない。ぜったいに


このような私には、とても、畑作りなど……。


プロフィールに、生まれた年や結婚された年が載っていて、
たまたま、奥様の清香さんとは、年も結婚した年も近かった。
だから思うのだけど、
三十歳ごろまで続けていたことを、全て切りはなし、
自分のことを誰もしらない地で、
心もからだも健康を保ち、
美しいものを美しいと感じ、好きなものを持ち、
やりたいことがあって、からだが動き、
だれかを愛し、ヴィジョンを持つなんて、難しい。

「自分さがし」という言葉を雑誌で見かける。
肩書きなしの自分でありたいと願う人が、
たくさんいることに驚く。

○○さんの奥さん。△△ちゃんのお母さんではなく、
自分の名前を呼ばれたい、
個人として自分を見て欲しいというのだ。

すごい。

私など、そこに「職場」を加えた超豪華三点セットのおかげで、
どうにか社会につないでもらっていると思うのに。
職場がなく家庭がなく子供がいなかったら、
誰が私の名を呼ぶだろう。

特別な能力や魅力やヴィジョンがなくても、
やるべきことが山のようにあり
(それはしたいこととは違っているかもしれないけれど)、
誠実に丁寧に的確に与えられた仕事を、責任を持って行うという、
あたりまえのことをするだけで、
感謝されたり、必要とされたりして、
居てもよい場所や、逃げこめる場所、羽根を伸ばせる場所がある。

それに甘んじたくない、
自分の居場所はここではないと思う人が多いのでしょう。

でも、
全てがリセットされて、なんの加算もオマケもない自分
(いったい、何ができると思う?)のことを、
冷静に分析し、あんまりじっくり考えたくないような負の部分も
逃げずにきちんと認めて是正して、
到達点を目指すために必要な努力を、
投げださず、あきらめず、たゆみなく続けることは、
ユルい精神では決して臨むことができない。 


清香さんが、時期ごとに記録している畑のレイアウト図がある。
(野菜によっては、栽培した影響が土壌から消えるまで、
同じ場所で連作してはいけないそうで、それを避け、
栽培計画をたてるために必要なのと、
生育状況などを書いておくことで、
次の作業を効率よくするために残されている)

いったい、これは、一年間に何枚になるのだろう? 
この十年間で、何十枚になるのだろう?

もちろん、私には、ただ、植えられている野菜の区画割り以外に、
見えるものはないのだけれど、
でも、想うことができる。

その一面いちめんに記された野菜の名前や、配置が、
清香さんにとって、
どのような出来事や、まつわる思い出を、
よみがえらせるものなのか。


           *     *     *


料理を作るために生まれてきた。
高校生のときにわかったと、シェフが書いていた。

安心した。やっぱり、そうだ。

自分の好きなことは、誰だってわかっている。
大人になるまでに、わかっている。

二十歳を過ぎても、まだみつからないとか、
何をしてよいかわからないとか、
四十歳を過ぎても同じようなことを言っているなんて、
それはうそだと、私は思っていたから。

やりたいことはわかっている。
ちゃんとわかっている。

でも、そのために積まなければならない修行に負けてしまったり、
やりもせずに無理だとあきらてめていたり。
時間がない、お金がない、チャンスがないと、
自分以外の何かのせいにしたり、
そもそも目的などなく、ただ楽がしたいだけだったり。

いつまで探し続けたって、
手ごたえも充実感も得られないでしょう。代替品では。

と思うけれど、

もしも、小さなころからの、遊びや生活や学びの中で、
自分が好きだと感じることが得られなかったり、わからなかったり、
たとえ、どんなささいなことでも、
ほめてもらって嬉しかった、という経験のない子供たちが、
今の世の中に増えているのだとしたら
(そんなことは信じたくないけれど)、憂えることだ。

だけど、少なくとも、私の世代では、
みんな、ちゃんとわかって育った、と思う。

天職に就いた人は、特別な人じゃない。
自分のしたいことから、目をそらさなかったのだ。
理由をつけて、別の道を選んだりしなかった。
あきらめなかった。努力を続けた。


「何かをするのに遅すぎるということない」

 誰の言葉だっただろう。

その言葉には続きがある。
「でも、明日じゃだめだ」


 明日じゃだめだ。


「ロアジ」は、イタリア語。

なすべきことを、

決して明日に持ちこさなかった永松夫妻の「オアシス」だ。


                (H18.5.20)


兵庫県 西宮阪急3F(阪急電車西宮北口) 
OSTERIA GIULIA オステリアジュリア

http://bravissimojapan.net/loasi.aspx


          (ゆ)のことだまセラピスト                 
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浜田 えみな

Author:浜田 えみな
こんにちは! ブログに来てくださってありがとうございます! H11生まれの長男と、H14生まれの長女の二児の母です。文章を書くことが好きなので、フルタイムで仕事をするかたわら、あれこれ書いています。H26年8月に薦められた短歌にハマり、現在その世界観を模索中です。よろしくお願いします。